People Have the Power by Patti Smith

ぼくは明るく美しい夢を見ていた

眠りから覚めても

夢は消えず そこにあった

 

輝く谷間

純粋な空気が満ちあふれ

新しい 感覚の扉が開いた

 

ぼくは目覚め 叫んだ

 

ぼくらには 力がある

あほだらどもがやってきたことの埋め合わせをする力が

よい人たちに恩寵を施す力

ぼくらこそが統治者

 

ぼくらには 力がある

ぼくらには 力がある

ぼくらには 力がある

ぼくらには 力がある

 

復讐心に燃えた夢たちの雲行きは怪しくなり

なにかを耳にしたかのように身を屈める

軍隊は侵攻をやめた

ぼくらが耳をそばだてていたから

 

羊飼いと兵士たちが星の下にいた

ヴィジョンをやりとりし

武器を捨て

塵の中で消耗しきっていた

 

輝く谷間たち

純粋な空気が満ちあふれ

新しい 感覚の扉が開く

ぼくは目覚め 叫ぶ

 

ぼくらには 力がある

ぼくらには 力がある

ぼくらには 力がある

ぼくらには 力がある

 

砂漠だったところに

泉がいくつもあって

まるでクリームみたいに水が噴き上がり

ぼくらは一緒にぶらつき歩いた

 

笑ったり批判したりするものなどいなかった

豹と子羊が

ほんとうの絆で結ばれ

一緒に横たわっていた

 

ぼくは願った

かつて見つけたものを取り戻せるように

ぼくは夢のなかで

もっと清らかな光景を 

ずっと夢見続けていた

 

眠りに身を委ねながら 

ぼくの夢をきみに託す

 

ぼくらには 力がある

ぼくらには 力がある

ぼくらには 力がある

ぼくらには 力がある

 

夢見る力 支配する力

あほだらどもから世界を取り戻す力

ぼくらが統治者

ぼくらこそが統治者

 

よく聞いてくれ

ぼくは信じる 

ぼくらが夢見ることすべてが

ぼくたちひとりひとりに伝わり ぼくらを団結させてくれる

 

ぼくらが世界の流れを変え

地球を回転させることができる

 

ぼくらには 力がある

ぼくらには 力がある

 

ぼくらには 力がある

ぼくらには 力がある

ぼくらには 力がある

 

ぼくらが 力を握ってる

 

             試訳 by Lucy / Keiko Aoyama

 

 

 

明日を決めるのは 私 たち

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言葉のマントラをつくる

「おれは声をあげ

今、アメリカ語からマントラをつくろう

おれは戦争の終結をここに宣言する!

いにしえの日々の幻影!――

おれ自身の千年紀(ミレニアム)の始まりの言葉を発しよう

合衆国よ震えよ

国をしてすすり泣かしめよ、

議会をして自らの喜びを制定せしめ

大統領に自らの欲望を執行させるのだ――」

アレン・ギンズバーグ『ウィチタ渦巻スートラ』

(『新潮』2016年6月号、アレン・ギンズバーグ、五篇の詩/村上春樹柴田元幸訳より)

私たちも私たちの言葉でマントラをつくろう

ラッセル・アインシュタイン宣言

"We appeal as human beings to human beings: Remember your humanity, and forget the rest. If you can do so, the way lies open to a new Paradise; if you cannot, there lies before you the risk of universal death."  ーーThe Russell-Einstein Manifesto ( Issued in London, 9 July 1955) 「私たちは、人類として、人類に向かって訴える——あなたがたの人間性を心にとどめ、そしてその他のことを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へ向かって開けている。もしできないならば、あなたがたの前には全面的な死の危険が横たわっている。 」(1955年7月9日 ロンドン) いつの日か必ずわたしたちにはそれができる そのために 種を蒔き続ける (Lucy も せっせとお手伝い) http://koebu.com/koe/... The Russell-Einstein Manifesto http://www.pugwash.org/about/... http://www.pugwashjapan.jp/r_e.html Pugwash Conference on Science and World Affairs http://www.pugwash.org/index.htm パグウォッシュ会議 http://www.pugwashjapan.jp/... 日本パグウォッシュ会議 http://www.pugwashjapan.jp/... 2015/08/13 更新 : 《70年の節目に、11月1日~5日、初めて長崎にて世界パグウォッシュ会議が開催される。私たちは、2015年NPT再検討会議の結果や世界で高まる核リスクを踏まえて、核兵器廃絶に向けて新たなアプローチが必要と考える。世界の科学者が、被爆地長崎にて「キノコ雲の下で起きたこと」を実感し、語り合い、そして会議の最後には「長崎を最後の被爆地に」を合言葉に、世界に向けて「核兵器と戦争の廃絶」を訴える「長崎宣言」を発表する。》 2015/08/11 日本パグウォッシュ会議 有志 「広島・長崎 被爆70年に際して」より http://pugwashjapan.wix.com/...!70/c17r0 の画像

アイヒマン問題

善きものは同時に悪もかかえている

ナチスドイツの政権下

ドイツの一般市民たちの多くはごくふつうの善き人たちで

目の前からかつての隣人たちが大勢消えて行ったけど

そのひとたちの命の行き先について真剣に考えたりはしなかった

自分たちの家族の日々の暮らしとささやかなしあわせを守ることを優先した

暗闇のむこうにあるものは考えないようにした

善き人たちはそんなつもりじゃなかったかもしれないけれど一致団結し

ありえないはずのものを

確実に可能にしていった

ホロコーストの地獄を

善きものは同時に悪もかかえているということを受け入れない限り

悪の暴走を抑えることはできない

アイヒマンは怪物でも倒錯的サディストでもなかった

彼は命令されたことを時計のように正確に遂行した「ふつうの善き人」のひとりだった

このことのグロテスクさと救いがたさ

人類が歴史上初めて直面したこの問題をアイヒマン問題と名付けるなら

アイヒマン問題の深刻さに初めて気づきそのことを言語化していったのがハンナ・アーレント

すべての物事を善と悪とに分類し

その際の判断の基準を自らに対して問い正すことのないまま

悪と判断したものを徹底的に排除し自分から遠ざけることで

善としての自己の安定を保とうとする

こうした精神のあり方からひとりひとりが解放されていかない限り

わたしたちは

あのアイヒマンと同じ

善き人であるだけじゃあだめなんだ

無自覚なままアイヒマンになってしまっているかもしれないんだから

わたしにとってそれはものすごく怖いこと

どうしてそれはいいこと?


なぜ?


どうしてそれは悪いこと?


なぜ?

どうしてそんなふうに判断したの

どうして?

どうしてだろう?

わたしのコンプレックスのせい?

とか

いろいろ考えてみる

いろいろ考えている

イデオロギーとか

主義 ( -ism ) とか

党派とか

そんな罠たちに絡め取られたくはない

情熱に抱かれ燃える叡智になりたい

映画『ハンナ・アーレントhttp://www.cetera.co.jp/h_arendt/

2014年12月6日追記:

DVDでもまた繰り返し見てみたいと思っています。

http://www.amazon.co.jp/dp/...

  

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ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』

「憲章{=1945年のロンドン条約}は次の三種類の犯罪について裁判権を認めた。「平和に対する罪」−−軍事法廷はこれを、「積み重ねられたすべての罪をそれ自身のなかに含んでいるという点で……最大の国際的犯罪」と呼んでいるーーー、「戦争犯罪」、そして「人道に対する罪」。これらのうち最後の人道に対する罪のみが新しい前例のないものだった。侵略戦争はすくなくとも記録に残る歴史と同じだけ古いものである。そしてこれまでに何度も〈犯罪的〉として非難されて来ながらも、正式には〈犯罪的〉として認められたことは一度もなかった。・・・・・・のみならず裁判に加わった国の一つ、つまりロシアは《tu quoque》[汝もまた]の論理には弱かった。ロシア軍も一九三九年にフィンランドを攻撃しポーランドを分割して何の罰も受けていないではないか。一方また〈戦争犯罪〉も勿論〈平和に対する罪〉と同じく先例のないものではなかったが、これについては国際法の規定があった。ハーグ協定とジュネーヴ協定はこのような〈戦争の法規もしくは刊行の侵犯〉を規定している。それは主として捕虜虐待と民間住民に対する戦闘類似行為から成っている。ここでも遡及力のある新しい法律は必要ではなかった。そしてニュールンベルク裁判における第一の難点は、ここでもまた《tu quoque》の論理が通用することだった。すなわちハーグ協定に調印していなかったロシアは(ついでに言えばイタリアもこれを批准していなかったが)明白に捕虜虐待をおこなっており、最近の調査によればカティン森(ロシア領のスモレンクスのそばの)でその屍体の発見された一万五千のポーランド軍将校の殺害はロシア人の仕業と見られている。もっと悪いことに、非武装都市の絨毯爆撃、そして何よりも広島および長崎に対する原爆投下はあきらかにハーグ協定で言っている戦争犯罪を構成した。そしてドイツの諸都市に対する爆撃は敵によって、すなわちロンドンやコヴェントリやロッテルダムに対する爆撃によって誘発されたのだとしても、またく新型の、しまも圧倒的な力を持った兵器の使用については同じことは言えない。そういう武器が存在するということは、別のいろいろの方法で知らせ、証明することもできたのだから。たしかに、連合軍によるハーグ協定の侵犯が一度も法律的に論じられなかったことのもっとも明白な理由は、国際軍事法廷が名ばかり国際であるにすぎず、事実は勝利者の法廷だったということである。」(エピローグ in『イェルサレムのアイヒマン』pp. 197-198;{ }は Lucy による加筆) 【用語解説】 アイヒマン裁判 ニュールンベルク裁判第二次世界大戦においてドイツにおいて行われた戦争犯罪を裁く国際軍事裁判 ハーグ協定 ジュネーヴ協定 ロンドン条約第二次世界大戦戦勝国の間で締結されたロンドン憲章の別名。ニュルンベルク裁判の法的根拠となった。 この本の使命はまだ終わっていない。 この本のなかで提言されていることが、これから現出する新たなる世界の幕開けにとって重要となってくるだろうから。 「この本は全体として思考の独立性のすばらしい証言です。……彼女が哲学的にも思想的にも徹底した、アウグスティヌスの愛の概念についての研究で正学位を得たとき、それもまだごく若く、たしか23歳だったと思いますが、教授資格を得るようにと人々は勧めました。それを彼女は拒絶した。彼女の本能は大学を拒んだ。彼女は自由でありたかったのだ。1933年に彼女は著述を一切放棄した。……彼女はユダヤ人の目的のための実践活動に入り、シオニスト協会に加入した。……戦争中彼女は評論を書きはじめました。大抵政治的なものです。戦後になって一作また一作と著書があらわれた。……彼女がそれによって生きる根本のものは、真理への意志、真の意味における人間的存在、幼年時代にまで見られる限りない誠実、そしてまた、逮捕(1933)と証券なしの国外移住のときに味わった極度の孤独の経験です。」ヤスパース、1965 (みすず書房サイトより) http://www.msz.co.jp/book/detail/... http://www.amazon.co.jp/gp/product/... 追記(2014/06/06) 映画『ハンナ・アーレントhttp://www.cetera.co.jp/h_arendt/ の画像

ゴダール・ソシアリスム(ブルーレイ・コレクション)

《民族はどれも嫌い。友人が好き。友人がいればいい》

《いかなる権力も要らない。私が望んでいるのは、社会であって、国家ではない。》

《「ミャーオ、ミャーオ、ミャーオ、ミャーオ…」

「静かに、アリッサ、静かに」

古代エジプト人は猫をこう呼んだの。」》

《1942、43 ニューヨーク 

ローマン・ヤコブソン 音と意味は切り離せない 》

こちら豪華客船ゴールデン・ウェブ号

応答願います

FILM JLG SOLIALISME:だから子供たちは勝利する

《多くの重いものが、精神にとっては存在する。その精神は、強くて、忍耐強く、また畏敬の念を宿している。つまり、重いもの、この上なく重いものを、その精神の強さは熱望してやまないのである。

 何が重いものなのか、と忍耐づよい精神は訊ねる。そして駱駝のように膝をついて、十分荷を積んでもらおうと欲する。

 何がこの上なく重いものなのか、君たち英雄たちよ、と忍耐強い精神は訊ねる。私もそれを自分に引き受けて、私の強さを喜びたいのだ、と。

 この上なく重いものとは、こういうことではないだろうか。屈辱の憂き目にあって、自分の高慢の鼻をへし折られること。自分の愚かさを外に見せ、自分の知恵をあざけること。

 それともそれは、こういうことであろうか。われわれの意中の事柄がうまく成功して勝利を収めようというときに、それから離れ去ること。高山に登って、誘惑者をためすこと。

 それともそれは、こういうことであろうか。認識のどんぐりや草で自分を養い、心理のためには魂の飢えの苦しみをも忍ぶこと。

 それともそれは、こういうことであろうか。病気でありながら、慰めてくれる人たちを家に帰し、君の欲することなどけっして聞き取りはしない聾者たちと交わりを結ぶこと。

 それともそれは、こういうことであろうか。それが真理の水であるならば汚ない水の中にでも入っていって、冷たい蛙や熱い蟇をも追い払わないこと。

 それともそれは、こういうことであろうか。われわれを軽蔑する人たちを愛し、幽霊がわれわれをこわがらせようと欲しているときにもその幽霊に握手を求めること。

 これらすべてのこの上なく重いものを、忍耐強い精神は自分に引き受ける。つまり、重荷を積まれて砂漠へと急ぐ駱駝のようにこうして彼は、彼の砂漠へと急ぐのである。

 けれども、この上ない孤独な砂漠の中で、第二の変化が起こる。すなわち、ここで精神は、獅子となるのであり、精神は、自由をわがものとして獲得しようと欲し、自分自身の砂漠の中で支配者であろうと欲するのである。

 自分を支配する最後の者を、彼はここで、自分のために探し出す。つまり彼は、その者、すなわち彼の最後の神に敵対しようと欲し、この巨大な竜と、勝利をかけて戦おうと欲する。

 精神がおはや支配者とも神とも呼ぶことを好まないこの巨大な竜とは、何であろうか。「汝なすべし」が、この巨大な竜の名前なのである。しかし、獅子の精神は言うのである、「われ欲す」と。

 「汝なすべし」が、獅子の精神の行く手をさえぎっている。それは、金色にきらめく一個の有隣動物であって、その鱗のどれにも「汝なすべし!」ということが、金色に輝いている。

 千年にもわたるもろもろの価値が、これらの鱗に輝いている。こうして、あらゆる竜のうちでもっとも強力なこの竜は言う、「事物のあらゆる価値、ーーーそれが私の身の上で輝いているのだ」と。

 「あらゆる価値はもうすでに創造されてしまっており、そしてあらゆる創造された価値ーーそれは、この私なのだ。本当を言えば、もはや『われ欲す』ということなど存在してはならないのだ!」このように竜は語る。

 わたしの兄弟たちよ、何のために精神において獅子が必要なのであろうか。重荷を負うことができ、諦めを知っており、畏敬の念に満ちている、あの駱駝という動物では、どうして十分ではないのであろうか。

 新しい価値を創造することーーこれは、獅子にもまだできることではない。しかし、新しい創造の働きのために自分に自由を創りだすことならばーーそれならば、獅子の力はなし能うのである。

 自分に自由を創りだし、義務に対してさえも聖なる「否」を言うこと、すなわちこのことのためにこそ、私の兄弟たちよ、獅子が必要なのである。

 新しい価値のための権利を自分に獲得することーーこれは、忍耐強く、また畏敬の念にみちた精神には、この上なく怖ろしい獲得行為である。実際本当に、それは彼にとっては、一つの強奪行為であり、強奪を常習とする動物のやることである。

 自分の奉ずるこの上なく神聖なものとして、精神はかつて「汝なすべし」を愛していた。今や彼は、そうしたこの上なく神聖なもののうちにさえも、妄想と恣意を見いださざるを得ない。こうしてこそ彼は、自分の愛していたものからの自由を、自分に強奪するようになるのである。つまり獅子が必要なのは、この強奪のために、なのである。

 しかし、言ってみてくれ、私の兄弟たちよ、獅子にもなしえなかったようなどんなことを、なおも小児がなしうるのであろうか。どうして、強奪する獅子は、さらにまた小児にもならなければならないのであろうか。

 小児は、無垢であり、そして忘却である。一つの新しい開始であり、一つの戯れであり、一つの自分から回り出す車輪であり、一つの最初の運動であり、一つの聖なる肯定を言うことである。

 そうなのだ。創造の戯れのためには、私の兄弟たちよ、一つの聖なる肯定を言うことが必要なのである。すなわち、精神は今や、自分の意志を意志するのであり、世界を喪失した者は、自分の世界を人のものとして獲得するのである。

 精神に三つの変化があることを私は君たちに列挙して述べた。すなわち、どのようにして、精神が駱駝となったか、次にその駱駝が獅子となったか、そして最後にその獅子が小児となったかを、である。》

 

 

ツァラトゥストラはこう語った(Also sprach Zarathustra)』by フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)

 

 

 

《太陽が襲って来るなら 太陽を殴ってやる》

 

 

ゴダール・ソシアリスム (FILM SOCIALISME)』で ジャン (Jean=Luc Godard) も語った

 

 

 

 

 

 

 

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