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『ポーラX (Pola X) 』

 かつてゴダールの再来と騒がれた若手映画監督がいる。その監督とは『ポンヌフの恋人 (Les Amants du Pont-Neuf)』(1991年 / 仏)を創ったレオス・カラックス (Leos Carax)。そのカラックスが『ポンヌフの恋人』から8年間の沈黙ののちに完成させた映画、それが『ポーラX』である。

 この映画をはじめて見たとき、これがカラックスの映像であるはずがないと思った。美しい田園風景。美しい主人公。美しい恋人。彼が住む美しい邸宅。まるで姉のような若くて美しい母親。なにもかもが美しい。でも、カラックスの映像であるはずがなかった。そこにあるのは、『ポンヌフの恋人』などとは似ても似つかない別の「なにか」だった。

 けれどそれはカラックスの映画に間違いなかった。これは現にカラックスの映画なのだ。だが、そのことに納得がいかないまま、もやもやしたものを抱え込んでいるうちに、ストーリーは急展開する。

 ストーリーの急展開と同時に、映像は引き裂かれ、暗く重く、ただひたすら暗く重く、ただひたすら不気味としか形容できないような映像へと変貌していく。なんなんだ、これは。なんなんだ、なんなんだ。なんなんだ、これは。

 映画を見終わった後のショック。正直に表現するなら、後味の悪さ。このような後味の悪い映画は、見たことがないようにさえ思った(*1)。数日間はこの映画のいくつかのシーンを夢に見てしまうのではないかとさえ思い、怯えたほどだ。

 しかし、それほど怖くて後味の悪さが残る映画だったが、そこにはなにかものすごく大事な「なにか」が表現されているのだということも、わたしは同時に感じとっていた。あのカラックスが創った映画なのだ。カラックスが創った映画なのだから。

 気がつくと、わたしは自分のことを「ポーラX後の人間」なのだと考えるようになっていた。この映画を理解できているか否かは別問題として、とにかく、わたしは、『ポーラX』を、見た / 体験した、のだ、そう自己認識するようになっていた。

 カラックスの苦悩はヨーロッパの歴史の苦悩と直結している。ヨーロッパ大陸で流されてきた、夥しい血、血、血…。大地に染み込んだ、どす黒い、血、血、血…。血、血、血…。暗くて、重苦しい、歴史。長い長い歴史。

 わたしに理解できたのは、そこまで。

 2002年4月。ゴダール監督の最新作『愛の世紀 (ELOGE DE L'AMOUR) 』を見た。そのとき、おぼろげながら解ったことがある。それは、ゴダールが抱えている苦しみが、カラックスの苦しみと同種のものだということ。両者は同じ大地に根をはる重苦しい現実を「直視」しているのだということ。

 けれど、ゴダールの映像は、カラックスのようには混乱していなかった。ゴダールはカラックスほど絶望はしていないのだとわたしは思った。そして、それはなぜか、と考えてみた。それは、おそらく、ゴダールの方がカラックスより長く生きているからなのではないか。ゴダールの方がより多くのものを見てきているから。そして「あらゆる破局の後も世界は回り続ける」ということを十分に知り得ているからなのではないか。おそらく、ゴダールは…。

 『ゴダールリア王』(1987年度製作 / 米)。今年の秋、はじめてこの映画を見る機会に恵まれた。この映画のなかでカラックスは、ゴダール自らが演じるプラギー教授の側に寄り添う寡黙な若者(エドガーの役)を演じていた。この映画を見て、わたしは、以前にもまして、カラックスが好きになった。だから、もうしばらく時間をかけながら『ポーラX』について自分なりに考えて続けてみようと思った。

NOTES:(*1) 今年の秋、ゴダール映画連続上映企画にせっせと足を運んだ。そのなかに『ポーラX』を見終わったとき感じたのと同種の後味の悪さを覚えた映画があった。それは『勝手に逃げろ / 人生 (Sauve qui peut (La vie)』。この映画に、わたしは吐き気を覚えた。ラストの重苦しさと絶望感は、『ポーラX』を連想させた。

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