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歓迎されない事実の「真理」は「意見」ということにされちゃう

 「おそらく以前であれば、宗教や哲学の事柄に関して多様な意見が寛容に扱われることなどなかったのに対して、今日では事実の真理がたまたま既存の集団の利益や快楽に対立するや、以前にもまして激しい敵意で迎えられる。」

 興味深くありません?

 「なるほど国家機密はつねに存在した。いずれの政府も特定の情報を機密扱いにし、それを公衆の注目から逸らしておかねばならず、そして真正な機密を漏らす人間はつねに反逆者として扱われてきた。しかし、このことをここで問題にしているのではない。わたしが考えている事実とは、公に知られているにもかかわらず、それを知っている公衆自身が公然と口にすることを巧みに、またしばしば自発的にタブー視し、実際とは別様に、すなわち秘密であるかのように扱いうる事実である。・・・イデオロギー的な政府によって暴政的に支配されれている国々のうちにもこの現象が見られるとすれば、この現象のもつ意義は重大である。(ヒトラーのドイツやスターリンのロシアにおいてさえも、反ユダヤ主義や人種主義、共産主義に関して「異端的な」見解を支持したり口に出すよりも、その存在がけっして秘密ではなかった強制収容所や死の収容所について語ることのほうが危険であった)。」

 「さらに厄介に思えるのは、歓迎されざる事実の真理が自由諸国で寛容に扱われる場合にも、しばしばそれらの事実は意識的ないし無意識的に、意見へと姿を変えられてしまうことである。まるで、ドイツがヒトラーを支持したこと、一九四〇年にフランスがドイツ軍の前に陥落したこと、第二次大戦中のヴァチカンの政策などが、歴史的記録の問題ではなく意見の問題であるかのように。・・・問われているのは、この共通のかつ事実のリアリティそのものである。実際、これこそ第一級の政治問題である。」

 ハンナ・アーレント「真理と政治」("Truth and Politics," THE NEW YORKER, February 25, 1967;引田隆也・斉藤純一訳『過去と未来の間』みすず書房 ) からの引用です。

 今の日本で自主的にタブー視されていることってなんだろう。みんなが知っているのに誰もがあえて口にしないことってなんなんだろう。この饒舌な時代に、黙して語られることのないことって、なんだろ。ふと、そんなことを考えました。

 そして、チョムスキーの次のような手厳しい言葉を思い出したりもしました。

 「この50年間を含む前の世紀には、日本が記憶に留めておくべきことが数多くあります。何度も言うようですが、他人の犯罪に目をつけるのはたやすい。東京にいて『アメリカ人はなんてひどいことをするんだ』と言っているのは簡単です。日本のひとたちが今しなければならないのは、東京を見ること、鏡を覗いてみることです。そうなるとそれほど安閑としてはいられないのではないですか。」(ノーム・チョムスキー、インタビュー記事「知識人とマスメディアに疑いの目を」インタビュアー:辺見庸『月刊 PLAY BOY』2002年6月号、pp. 36-43)