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アンリ・ルソー《ライオンの食事》とバタイユ『宗教の理論』

先月、《メトロポリタン美術館展--ピカソとエコール・ド・パリ》に出かけた。

展示会場に入ってすぐの壁に掛かっていた最初の絵。アンリ・ルソーの《ライオンの食事》。それは、熱帯とおぼしきジャングルのなかで、一匹のライオンが獲物を食いちぎっている絵だった。獲物がなんの動物なのか、頭の部分はすでにライオンに食いちぎられてしまっているため、正確には分からないのだが、体の斑点から推測するに、豹かなにかのようだった。ライオンは二本足で立ち、まるでその獲物と組み合うような格好で、すでに頭がない獲物の首のあたりに噛みつきながら、こちらを睨んでいる。獲物の首と胸のあたりから、赤い血が流れ出している。

このように説明すると、この絵はとても残酷な絵であるように思われるかも知れない。事実、この絵は、自然界の弱肉強食の現場を描き出していた。《弱肉強食》。確かにそれは残酷な掟に違いない。にもかかわらず、この絵は、ちっとも残酷なんかじゃなかった。少なくとも、私にとって、この絵は、「残酷」という言葉と結びつくものではなかった。

わたしがこの絵から感じとったのは、むしろ「静けさ」だった。それは「平穏なまでの静けさ」。「やさしさ」ではない。そうではなく「やさしさ」とは対極の、あるいは、別種のなにか。なのにこの絵を見ていると、なぜか、心がやすらいだ。

ジャングルの草木は生い茂り。見たことのない木の枝には黄色い花がついていた。まるで水鳥の胸の一番柔らかい羽毛をあつめて出来上がったような白い大きな花もある(ほんとうに花なのかどうかも定かではないのだけれど)。ライオンの頭の上あたりに浮かぶように咲いている一輪の青い花。ジャングルの向こう側には丘があるようで、その丘の向こうから白い光を発した太陽が半分だけ見える。

一見、写実的な絵に見えるが、写実ではあり得ない光景。ジャングルの緑は松葉色や萌木色や抹茶色。黄色い花は山吹色で、青い花は紺青に少し白を混ぜたような色。こうした色彩がこの絵の静けさと幻想性を作り出している。ならば、この絵のそうした幻想性は、自然界における《弱肉強食》の残酷な掟を曖昧なものにする、あるいは、美化しさえする手助けをしているのだろうか。

ジョルジュ・バタイユは『宗教の理論』のなかで、《動物性》とは「直接=無媒介=即時性(イメデイアトウテ)」であり、あるいは内在性である」と述べ、次のように続ける:

 動物がその環界に対して内在性としてあることは、ある明確な情況の内に与えられており、その重要性は根本的なものである。・・・その情況とは、《ある動物が他の動物を食べるとき》に与えられている。

 ある動物がなにか他の動物を食べるときに与えられるのは、いつでも食べる動物の同類である。この意味で私は、内在性というのである。

 つまりそれとして認識された一個の同類が問題になるのではないのだ。食べる動物は、食べられる動物に対して超越性としてあるのではない。おそらくそこにはある相違はあるのだけれども、他の動物を食べるこの動物が、その相違をはっきり肯定しながらその他の動物に対立することはありえないのである。

 ある種類の動物たちは、お互いに共食いすることはない……。なるほどそれは正しいけれども、大鷹が雌鶏を食べる場合に、われわれがある物=客体(オブジェ)をわれわれ自身から区別するのと同じような仕方で、大鷹がその雌鶏を自分自身から明確に区別しているのではないとすれば、それはたいした重要さを持たない。そういう区別がなされるためには、物=客体がそれとして定置されることが求められる。・・・食べられる動物と食べる動物との間には、ある客体を、ある事物(ショーズ)を、人間に--むろんのこと自分が一個の事物のごとくみなされることを拒む人間に縛りつけるような従属の関係はないのである。動物にとっては、時間の軸に沿ってずっと与えられているものはなにもない。物=客体が時間の内に、つまりその持続がそこにおいて捕捉されうるような《時間の内に存在する》のは、われわれが《人間としてあること》によるのであり、ちょうどまさしくその度合いに応じてそうなのである。・・・

 《動物の生》においては、《主人とその命令下にある奴隷という関係》を導入するものはなにもなく、また一方に独立を、そして他方に従属をうち立てるようなものもなにもない。動物たちはお互いに食べ合うのであるから、その力は同等ではないけれども、彼らの間にはこうした量的な差異以外のものはけっしてないのである。ライオンは百獣の王ではない。それは水流の動きの内で、比較的弱小な他の波たちを打ち倒すより高い波にしか過ぎない。

 ある動物が他の動物を食べるということは、根本的な情況を変えるものではまずないのである。全て動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している。

          (バタイユ『宗教の理論』;《》強調 Lucy)

アンリ・ルソーの《ライオンの食事》の静けさは、バタイユに連なっている。「ライオンは百獣の王ではない。それは水流の動きの内で、比較的弱小な他の波たちを打ち倒すより高い波にしか過ぎない」のだから。「全て動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」のだ。

自然界における弱肉強食は、実は、残酷と考えるべきものではないということを知るのは意義あることだろう。それは自然界においてそうあるものとしてあるにすぎない。そして、食べられる動物と食べる動物との間にはなんの従属関係もない。それが自然界だ。

一方、人間が人間としてあるということ。それは人間としての生を生きているということである。人間は人間としてあることにより、自然から逸脱した存在であらざるを得ない。人間は人間としてあろうとする限り、自然とは別のなにかを抱え込まざるをえない。だから、人間の生と動物の生は、根本的に、決定的に、違うものであらざるをえない。人間界は自然界ではありえない*。

自然界における弱肉強食は、実は、残酷と考えるべきものではない。けれど、人間界における弱肉強食には、主人とその命令下にある奴隷という関係が導入される。食べられる人間と食べる人間。すなわち、食い物にされる人間(従属させられる人間)と他人を食い物にする人間(支配し従属させようとする人間)。両者の関係は対等ではあり得ない。人間界における弱肉強食は、どこまでも残酷で、どこまでも許し難い。

『宗教の理論』

第一部 基本的資料 

 I.  動物性

 II. 人間性と俗なる世界の形成

 III. 供犠、祝祭および聖なる世界の諸原則

第二部 理性の限界内における宗教(軍事秩序から産業発展へ)

 I. 軍事秩序

 II. 二元論とモラル

 III. 媒介作用

 IV. 産業の飛躍的発展

……とみなす者へ

付録 総体を示す図表および参照文献

Note*--わたしは、今、「自然」「自然」と簡単に口にしてしまっている自分に少しばかり苛立っています。「自然」という、この言葉、この観念が、どれほど複雑で扱いにくいものであるかということが、おぼろげながらも判りかけてきてるから。いったん「戦争」のような《異常事態》が発生したとき、この言葉、この観念が、突如と熱烈に喚び求められ、悪用され、怪物のような恐ろしい姿で《人類》の前に立ちはだかってきた、そのことも判りかけてきてるから。もっと勉強しなくては…。