ゴダールの映画『JLG/ 自画像』で、帽子をかぶり白いVネックのセーターを着たゴダールが屋内テニスコートでテニスをしているシーンがある(その動きからゴダールは普段からテニスに慣れ親しんでいる様子がうかがえる)。途中、ノートに書かれた文字の映像が挿入される。具体的には次のように:
○テニスをする JLG の映像
JLG の声 「自伝ではない。肖像でもない」
○ノートの文字
30-40
われわれの戦前
○テニス風景
ダブルスで、JLG は後衛の女性に、一瞬かくし球の仕種をしてボールを送る。
○ノートの文字
過去(パッセ)は死んではいない
過去(パッセ)ですらない
○テニス風景
JLG が横っ飛びでヴォレーしようとするが、パッシング・ショットを決められてしまう。
JLG 過去(パッセ)にやられるのもいいものだ
『JLG/ 自画像』シナリオ(構成:杉原賢彦、字幕翻訳:映画史字幕集団2002(柴田駿他)より引用
ここでの「過去は死んではいない / 過去ですらない」という言葉。これはウィリアム・フォークナーの言葉(『尼僧への鎮魂歌』)。さらにこのフォークナーの言葉は、ハンナ・アーレント (Hannah Arendt) の『過去と未来の間 (Between Past and Future)』のなかでも引用されている。
アーレントは『過去と未来の間 』の序「過去と未来の間の裂け目」のなかで、カフカのある寓話を取りあげている。それはふたりの敵をもつ「彼」という人物についての寓話なのだが、アーレントはそれを過去と未来の力(フォーシズ = FORCES)が衝突し合う戦場で闘う人間の寓話と読む。「過去は死んではいない / 過去ですらない」というフォークナーの言葉を引用しながら、このカフカの寓話が、未来のみならず過去をも人間が闘わなくてはならない力(フォース = FORCE)と見ていること、さらに、われわれを過去へと押し戻すのは未来であるということ、過去と未来の中間点の「彼」がいる現在とは時間の連続体ではなくむしろ時間の裂け目(ギャップ)であり、しかも、その裂け目は「彼」が過去と未来のふたつに抵抗して闘うことによりはじめて存在していることを物語るものだとアーレントは解釈する。
「人間が時間のうちに立ち現れることによってのみ、また人間が自らの場をしめるかぎりでのみ、無差別な時間の流れは断ち切られ、[過去・現在・未来の] 時制となる。この人間の立ち現れこそ、時間の連続体を過去と未来の力へと分裂させるのである。それはアウグスティヌスの言葉を用いれば一つの始まりの始まりである」(『過去と未来の間 』)
『過去と未来の間 』(Between Past and Future, New York, 1961, 1968;引田隆也・斉藤純一訳、みすず書房、1994年)
なのでこのキーワードをほんとは「テニスをする JLG とハンナ・アーレント」にしたかったです(ほんと)。