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人間は国籍をこえて人間である

「フランスに『国境なき医師団」という組織がある。全くの民間団体である。世界で災害など起こると、まず最初に現地に姿をみせるのは、この「医師団」だという。《平和憲法を持つ日本からではない》。そこには五〇〇〇人をこえる世界各国の医師が登録している。現在日本からも、少数ではあるが、登録している医師がいる。またアジアで活動しようとする日本独自の医師のボランティア集団も生まれている。

 しかし全体として、日本の歴史のなかで、普遍的な価値をめざし、国境を越えてのボランティア的な活動を大きく展開した経験は、たいへんに乏しい」

日高六郎は『私の平和論』に収められた「憲法についてーー短い感想」のなかでこう述べ「私たち日本人は、普遍的な倫理的感覚を持つことが不得手」なのではないかと指摘する。

 

「私たち日本人は、《普遍的な倫理的感覚》を持つことが不得手ではないのか。いや、不得手などという技術的なことではない。問題の根はもっと深いところにある。《そういう日本の政府と民衆が、最も普遍的な憲法の平和主義条項を持つことになった》。《その溝をこえる大きな仕事があたえられていたはずだ》と思う。その重荷を荷ないなおすことができるだろうか」

ここで日高は、普遍的な倫理的感覚を持つことが不得手だという理由で日本人を批判しようとしているのではない。日本国憲法は普遍的な原理に基づいている。日本はそういう憲法をもつ国である。だからこそ、普遍的な価値をめざす国際的な活動において重要な役割を積極的に果たそうとする、そういう未来をめざしてはどうだろうか。そういう国家になることを、そういう国家の国民となることをめざしてはどうだろうか。そう、日高は提言し、励ましてくれている。

日高は日本国憲法について語る時、この憲法がもつ国際的意味を常に強調する。日本国憲法がもつ国際性と普遍性にわたしたちの目を開かせてくれる。それゆえ、わたしは彼の憲法についての考え方に感銘を受け、強い共感を感じる。

「《人間は国籍をこえて人間である》という普遍性の原理は、戦前の日本にはほとんど見られなかった。日本の戦後はどうだったか。朝鮮や中国から強制連行した労働者を、なんの補償もせず、切りすてた。これは国家の犯罪ではあるまいか。もちろん一般日本人の民族差別の言動も、いまでもくりかえし指摘されている。戦後の教育を受けたものにも、それは引きつがれている。」

日本国憲法は、普遍の原理としての人権を強調している。平和主義も人権原理の表現だと、私は考える。そして第九条は世界の憲法のなかで、独自的である。しかしそれを荷なうべき政府が普遍性の感覚に弱いということはないのか。それを監視すべき民衆がさまざまの差別感情にとらわれているということはないのか。」

「日本の〈平和と安全〉を守るというならば、まず国内では外国人への差別をなくし、国外では、飢餓や貧困のある場所には、つねに日本からのNGOやボランティアの活動が、最も数多く、最も質高く見ることができるという状況を作らなければならない。そのような活動以外に他国の信頼を得る道はないと思う。軍事的ではなく、すなわち自衛隊日米安保条約にたよるのではなく、まさしく非軍事的活動の大きな展開が、日本国憲法の非武装の理念に沿うことではあるまいか」

日高六郎『私の平和論』より(《》は Lucy による強調)

日高六郎:1917年、中国・青島市生まれ。社会学者。「15年戦争が敗戦に終わったとき、東京大学文学部の社会学科の助手で、28歳」。よって 2005年現在、88歳。大学紛争の際に東京大学・新聞研究所の教授を自ら辞する。その後京都精華大学教員を経て渡仏、現在パリ在住。

(ただいま検討中:このKWもう少し手直ししなくちゃと考えているところです from Lucy)