『ベルリン・天使の詩 (DER HIMMEL UBER BERLIN)』

 おおきな図書館や地下書庫にいるとき、初雪をみたとき、ふと天使の気配を感じたりすることはありませんか?

 

 「わらべうた。/ 子供は子供だった頃 / 手を翼のようにぶらぶらさせ / 小川は川に 川は河になれ / 水たまりは海になれ とうたった……。」

 

 1988年、日比谷シネ・シャンテで、ヴィム・ヴェンダース監督の『ベルリン・天使の詩』を見た。この映画に登場する天使たちはみな、人間となんら変わることのない普通の格好をしている。人間と同じ洋服を着た彼らだが、人間とは違い、彼らには白くて大きい翼がある。白くて大きい翼。その翼を使って彼ら天使たちはベルリンの街をあちこち自由に移動することができる。教会の屋根の上や図書館の手すりに腰を下ろし彼らは人間たちの日常を静かに見守っている(特に、古い大きな図書館では天使たちが至る所で羽を休めている。

 

 彼ら天使たちは時を超え、人間たちのすべての歴史を目撃してきた。苦悩する人々のそばに寄り添い、そっとその肩に触れては、彼らを勇気づけようとしてきた。けれどもちろん、人間たちには彼ら天使の姿は見えない。だから傍らに天使がいてもそれに気づくこともない(ごく少数の例外的な人間を除いては)。だから天使たちにできることは、愛の心で人間たちの日々の営みを眺め続けることだけ。そして自分たちの決定的な無力に絶望することだけ。

 

 天使のひとり、ダニエルが、サーカスの空中ブランコ乗りの女性に恋をする。彼は、この女性と一緒に生きたいと強く欲した。恋ゆえ、彼は、みずからの天使としての「不死性」をあえて手放し、やがて必ず死を迎えなくてはならない一回きりの人生、つまり、人間として生きること、「いつかは必ず死に至る定め」をあえて生きる道を選ぶ。

 

 ダニエルが人間になった瞬間、彼はたちまち空からまっさかさまに落下。ドサリという音とともに、落書きだらけのベルリンの壁の横にぶざまな格好で転がり落ちる。その瞬間、それまでモノクロだったスクリーンの映像が突然カラーに変わる。

 

 ダニエルが天使だったころ、彼はその翼で自由に飛び回っていた。自らの死を畏れる必要もなかった。すべてを見通す眼を持っていた。過去も未来も人の心も、彼にはすべてが見えていた。けれど彼が見ていた世界に色彩はなかった。

 

 ベルリンの壁崩壊後の1993年『ベルリン・天使の詩』の続編にあたる『時の翼にのって (FARAWAY,SO CLOSE! )』が公開される。かつて天使だったダニエルと空中ブランコ乗りの彼女とのあいだには、かわいい女の子が生まれている。その子もすでに母親と一緒のサーカスでブランコに乗っている。実は人間界には元天使たちが結構たくさんいたのだ(役者のピーター・フォークも実は元天使という設定)。そしてまたひとり、天使が人間界に落ちてくる…。

 

 ベルリンの壁の崩壊が、かつて夢に描いていたような社会の実現とはほど遠いものになっている東西ドイツ統一後の厳しい現実。この映画が『ベルリン・天使の詩』とは雰囲気もテーマも全く異なったものになってしまっているのは、こうした現実とこれからの未来の不透明さに由来する。世界は既に善悪のクリアーな二項対立によっては説明づけることのできない自己増殖を続ける不気味なシステムと化している。ますます混沌としていく歴史の川の流れの先になにかの希望を見いだすことはできるのか。船出のラスト・シーンに込められたヴィム・ヴェンダース監督の思いはなんだったのか。

 

追記:

 この映画の邦題は『ベルリン・天使の詩』だが、英語題は『WINGS OF DESIRE』(「欲望の翼」の意)、ドイツ語題は『DER HIMMEL UBER BERLIN』(「ベルリン天空」の意)。ちょっと興味深くありません?

 

独り言:

 「あの頃 わたしは 今より ずっと老けていた

  今のわたしは あの頃より 若い」

  (ボブ・ディラン「マイ・バック・ペイジズ」)

6年ぶりの更新:天使たちの行進 

 

「子どもが子どもだったころ、こう思った

なぜ、ぼくはぼくなのか

なぜ、ぼくは君じゃないのか

なぜ、ぼくはここにいて、そこにいない

時の始まりはいつ?

宇宙の果てはどこ?

この世で生きるのはただの夢?

見るもの、聞くもの、嗅ぐものは前世の幻?

ぼくがぼくになる前はどんなだった?

ぼくがぼくでなくなった後、ぼくは一体、何になる?」

何になるのかなあ?

ねえ、何になりたい?

 

Wings of Desire (Wim Wenders) 

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