『ゆきゆきて、神軍』

BOX 東中野で映画『ゆきゆきて、神軍』*を見た。あまりの衝撃にうずくまり膝を抱え身動きできなくなりそうなほどだった。

いったいあそこでなにが起きていたのか。ニューギニアのジャングルで《なにが》あったのか。《なにが》。それをわたしはどう考えたらいいのか。

ニューギニア戦線。極限状態で起きた《異常事態》。これ以上、思考が先に進めなくなるほどの《異常さ》。普通ではないこと。通常では考えられないこと。《異常》。

だが、それでも、それでも、動かなくなりそうな頭をどうにか使って考える。

たしかに誰の目にもそれは《異常》だということが分かるだろう。《異常事態》なのだ。否定しようがなく《異常事態》なのだ。そして、そこには、その《異常事態》を作りだしているものがあったのだ。《異常事態を作りだしていたもの》が確かにあったはずなのだ。

ニューギニア戦線での異常事態を作りだしていたもの》。それはなんだったのか。

しかも、その《ニューギニア戦線での異常事態を作りだしていたもの》は、戦争が終わった後、この日本に持ち込まれ、この今わたしたちが生きて生活しているこの日本の社会で、今もなお生きている。生きて、うごめいている。

《あの異常事態を作りだし今もなお日本の社会でうごめいているもの》。それはなんなのか。

それを仮に「体質」とか「仕組み」とか「思考方法」とか「構造」とか「装置」とかと呼ぶこともできるだろう。けれど、それらの言葉だけでは、《あの異常事態を作りだし今もなお日本の社会でうごめいているもの》の正体を把握するためには十分ではない。

《あの異常事態を作りだし今もなお日本の社会でうごめいているもの》。それには名前がない。名前をもたぬ《なにか》。それが生きている。生きて動いて成長し続けている。今も。今も。

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ゆきゆきて、神軍』を見ながら、ハンナ・アーレント著作の一節が何度も頭のなかに浮かんできた。次の箇所だ:

 行政的な大量殺戮という犯罪に対しては人間の力の及びうる政治的解決は存在しない。まったく同じように、この大量殺戮に向けた国民の総動員に対して十全に対応することは、人間のもつ正義への要求ではかなわないことである。誰もが罪に関与しているとすれば、結局のところ誰もが裁かれえない。というのも、この罪に対してたんに表面上の責任をとったり、責任をとるふりをすることすら、その関与者たちには望めないからである。犯罪者は当然刑罰をもって報いられるべきである----このパラダイムは、西洋人にとって二千年以上も前から正義と権利の感覚の基礎をなしてきた----とすれば、そのかぎり罪は罪の自覚を含み、刑罰は犯罪者が帰責*可能な人格であることを証さねばならない。いまこれがどうなっているかを、アメリカの特派員が巧みに描き出している。彼の報告するインタヴューの様子には、偉大な詩人の想像と創作の力に匹敵するくらいの価値がある。

 「あなたは収容所でひとを殺しましたね」「ええ」

 「毒ガスを使って殺したのですか」「ええ」

 「生き埋めにしたことはありますか」「ええ、そうしたときもあります」

 「犠牲者はヨーロッパ全土から連れてこられたのですか」「そう思います」

 「あなたは個人的に殺戮に手を貸したことがありますか「まったくありません、私は収容所の一主計官にすぎないのです」

 「あなたは収容所で行われていたことについてどう思っていましたか」「最初はよくないと思いましたが、私たちは慣れてしまったのです」

 「ロシア人があなたを絞首刑にしようとしているのをご存じですか」(突然涙が溢れだし)「いったいどういうことでしょう。《私が何をしたというのでしょう》」

    (強調はアーレント*。一九四四年十月十二日、日曜日、午後)

事実彼は何もしなかった。彼はただ命令を遂行したまでのことである。命令の遂行が犯罪の行使になったのはいつからなのか。いつから命令への反抗が徳になったのか。死を覚悟しなければまともでありえなくなったのは、いつからなのか。では、いったい彼は何をしたのか。

----------ハンナ・アーレント「組織的な罪と普遍的な責任」*(『アーレント政治思想集成1』*所収)

【NOTES】

ゆきゆきて、神軍』:1987年 / カラー / 35mm / 122分 / 監督・撮影:原一男 / 企画:今村昌平 / 録音:栗林豊彦 / 編集:鍋島惇 / 製作:小林佐知子 / 製作:疾走プロ / ベルリン映画祭カリガリ映画賞受賞、シネマ・デュ・レエルのグランプリ受賞

帰責(きせき):[法](Zurechnung ドイツ・attributionイギリス)責(せめ)を帰すること。或る者のせいにすること。帰属。(『広辞苑 第五版』)

強調はアーレント:強調のための傍点が使えないので《》で強調を表した。ゆえに《》部分の強調はアーレントによる。

「組織的な罪と普遍的な責任」:"Organized Guilt and Universal Responsibility.", 『Jewish Frontier』, No. 12, 1945 に "German Guilt" の表題で初出。

アーレント政治思想集成1』:J・コーン編 / 齋藤純一、山田正行、矢野久美子 共訳 / みすず書房 / 2002年10月

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【追記 (19 Jan 2009)】

2009年2月28日(sat)から3月6日(fri)まで早稲田松竹にて上映予定。

(同時上映『全身小説家』:1994年/監督 原一男/出演 井上光晴/井上郁子/埴谷雄高瀬戸内寂聴

http://www.h4.dion.ne.jp/...

ふたたび映画館のスクリーンで『ゆきゆきて、神軍』を見/考えてみるつもりです。

【追記その2 (24 Jan 2009)】

《「わかりました。私、神様にお伺いしてみます」

神様は何とおっしゃるだろうか、撮影を許可していただく。明日にでもお伺いするとのこと。急ぎ機材を準備する。その翌日、

『昭和二十年九月頃、東部ニューギニアにて死亡せる兄、吉沢徹之助の死因について、お教え下さることを示壽祈す』

と、崎本倫子は命題を書き、神殿へと入っていった。私も一緒に神様にお願いして欲しいと言われる。崎本倫子に習って柏手を打ち、頭を伏す。崎本倫子の神様にお伺いをする声が響いてくる応接間で待つこと一時間。神殿から出てくる姿からカメラでフォローし、崎本倫子の口から出る神様の言葉を待つ。

「兄は処刑されたんです」

私の身体に軽い戦慄が走った。はっきりと”処刑”と神様が断定なさったのだ。原因は?と問う。

「食べ物のことです。兄たちが邪魔になったんです」

私はなおも死刑事件を調べて回るうちに、死者達が、”この世”に出たがっている、と想えてきた。”この世”が、死者達の死の状況を凝視するよう、私を衝き動かしている力を感じていた。こんな想いを抱くのは私にとって初めての体験であった。》

原一男「『ゆきゆきて、神軍』−−製作ノート」『ゆきゆきて、神軍』(1984年;原一男・疾走プロダクション編著) 所収より転載

Yamagata International Documentary Film Festival '97

YUKI YUKITE SHINGUN[THE EMPEROR'S NAKED ARMY MARCHES ON]』 http://www.yidff.jp/97/cat091/...

"Documentarist alloes subject's violence to taint his work" http://tech.mit.edu/V109/N18/... 

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『Emperor's Naked Army Marches on』 (W/Book) (Col) [DVD] [Import]http://www.amazon.co.jp/...

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