意味がなければスイングはない
「音楽についてそろそろ真剣に、腰を据えて語るべきではないか」
村上春樹がクラシック,ジャズ、ロックミュージシャンについて語りながら《スイング》の本質を伝授してくれています。
《思うのだけれど、クラシック音楽を聴く喜びのひとつは、自分なりのいくつかの名曲を持ち、自分なりの何人かの名演奏家を持つことにあるのではないだろうか。それは場合によっては、世間の評価とは合致しないかもしれない。でもそのような「自分だけの引き出し」を持つことによって、その人の音楽世界は独自の広がりを持ち、深みを持つようになっていくはずだ。そしてシューベルトのニ長調ソナタは、僕にとってのそのような大事な「個人的引き出し」であり、僕はその音楽を通して、長い歳月のあいだに、ユージン・イストミンやヴォルター・クリーンやクリフォード・カーゾン、そしてアンスネスといったピアニストたちーーこう言ってはなんだけど、決して一流のピアニストというわけではないーーがそれぞれに紡ぎだす優れた音楽世界に巡りあってくるができた。当たり前のことだけれど、それはほかの誰の体験でもない。僕の体験なのだ。
そしてそのような個人的体験は、それなりに貴重な暖かい記憶となって、僕の心の中に残っている。あなたの心の中にも、それに類したものは少なからずあるはずだ。僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、太陽系第三惑星上における我々の人生はおそらく、耐え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。だからこそおそらく僕らは恋をするのだし、ときとして、まるで恋をするように音楽を聴くのだ。》
(「シューベルト『ピアノソナタ第十七番ニ長調』D850」『意味がなければスイングはない』所収)
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『意味がなければスイングはない』