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村上春樹『アフターダーク』

高橋は間を置く。

「僕は主に刑事事件の裁判を傍聴した。暴行傷害とか、放火とか、強盗殺人とか。悪いやつがいて、悪いことをして、とっつかまって裁判にかけられる。お仕置きを受ける。そういう方がわかりやすいじゃないか。経済犯とか、思想犯みたいなやつだと、事件背景が込み入ってくる。善と悪との見分けがつきにくくなってくるし、そうなると面倒だ。僕としてはさっさとペーパーを書いて、まずまずの単位をもらって、それでおしまいというつもりだった。小学生の夏休みにやった朝顔の観察日記と同じだよ」

高橋はそこで言葉を切る。テーブルの上に置いた自分の手のひらを眺める。

「でもね、何度か裁判にかよって、事件の傍聴をしているうちに、そこで裁かれている出来事と、その出来事にかかわっている人々の姿を見ることに、変な興味を持ち始めたんた。ていうか、だんだん人ごとには思えないようになってきたんだよ。それは不思議な気持ちだったね。だってさ、そこで裁かれているのは、どう考えたって僕とは違う種類の人たちなんだよ。僕とは違う世界に住んで、違う考え方をして、僕とは違う行動をとっている。その人たちの住んでいる世界と、僕の住んでいる世界とのあいだには、しっかりとした高い壁がある。最初のうちはそう考えていた。だってさ、僕が凶悪犯罪を犯す可能性なんてまずない。僕は平和主義者で、性格温厚、子供のころから誰かに向かって手を揚げたことだって。だからまったくの見物人として、裁判を高見から眺めることができた。よそごととして」

彼は顔を上げて、マリを見る。そして言葉を選ぶ。

「しかし裁判所に通って、関係者の証言を聞き、検事の論告や弁護士の弁論を聞き、本人の陳述を聞いているうちに、どうも自信が持てなくなってきた。つまりさ、なんかこんな風に思うようになってきたんだ。二つの世界を隔てる壁なんてものは、実際には存在しないのかも知れないぞって。もしあったとしても、はりぼてのぺらぺらの壁なのかも知れない。ひょいともたれかかったとたんに、突き抜けて向こう側に落っこちてしまうようなものかもしれない。というか、僕ら自身の中にあっち側がすでにこっそりと忍び込んできているのに,そのことに気づいていないだけなのかもしれない。そういう気持ちがしてきたんだ。言葉で説明するのはむずかしいんだけどね」

高橋はオーヒーカップの縁を指でなぞる。

「で、いったんそういう風に考えだすとね、いろんなことがそれまでとは違った風に見えてきた。裁判という制度そのものが、僕の目には、ひとつの特殊な、異様な生き物として映るようになった」

「異様な生き物?」

「たとえば、そうだな、タコのようなものだよ。深い海の底に住む巨大なタコ。たくましい生命力を持ち、たくさんの長い足をくねらせて、深い海の中をどこかに進んでいく。僕は裁判を傍聴しながら、そういう生き物の姿を想像しないわけにはいかなかった。そいつはいろんなかたちをとる。国家というかたちをとるときもあるし、法律というかたちをとるときもある。もっとややこしい、やっかいなかたちをとることもある。切っても切っても、あとから足が生えてくる。そいつを殺すことは誰にもできない。あまりにも強いし、あまりにも深いところに住んでいるから。心臓がどこにあるかだってわからない。僕がそのときに感じたのは、深い恐怖だ。それから、どれだけ遠くまで逃げても、そいつから逃れることはできないんだという絶望感みたいなもの。そいつはね、僕が僕であり、君が君であるなんてことはこれっぽっちも考えてくれない。そいつの前では、あらゆる人間が名前を失い、顔をなくしてしまうんだ。僕らはみんなただの記号になってしまう。ただの番号になってしまう」

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