「市民」としての小田実

「クロード・ルフォールによれば、"近代の民主主義は、政治と思想が乖離しているので、全体主義へと向かう傾向がある"」

「そう、私も同じ意見だ」

「私が信じるのは、死を前にした証言者だ」

ジャン=リュック・ゴダール『アワーミュージック』より)

2007年7月30日 2:05 am、小田実、死去。75歳。

http://www.47news.jp/CN/200707/...

「ふつうの人のつながり」「市民」という言葉を大切にして、こう解説した。

デモ行進の時、だれも名刺交換はしない。隣を歩く者の正体を知らず、ある問題への怒り、その解決への思いと志だけを共有して歩く老若男女、それが「市民」だ。

(2007年7月30日付朝日新聞夕刊「評伝:焼け跡原点、行動の作家」より)

以下は、小田実が残したメッセージの一部。

 国が勝手につくった政治,政策、それにただ従うだけであれば、独裁政治です。それよりもう少しましなのが、政治家が集まって政党をつくって、政党が政策をつくるもの。これは独裁政治よりはましですが、政党が勝手にやるものです。選挙というものは矛盾しています。一つには、全体の政策をつくってわれわれに提示するけれど、同じ政党でも、それらの政策が矛盾することがあります。A 政党の政策 X には賛成だけれども、政策 Y には反対で、政策 Z はどうかと思うというときデモもするのでるが、たいてい最大公約数として、結局いろいろガマンして、その政党に投票する。でも、それは、本当はおかしいわけです。独裁政治よりはましだけれども、そういう矛盾が表れて来る。選挙自体の問題が問われていると思います。それに、議会が何でも勝手に決めていいのかという問題もあります。裁判所は何のためにあるのか、という提言と同じです。

 もう一つ問題なのは、そのときの政策がよくても、事態が変わって来たり、問題が変わったりする。突発的なことが起こったときに、われわれは委任していいのかという点です。一つひとつの問題について選挙をしないといけないでしょう。

・・・

 結局、選挙のとき、市民はいろんな政策を持って、そのときどきの政党の掲げる政策に近いものに投票する。あるいは逆に「やり直せ」と言って、デモ行進するとか、ストライキをするとか、そういう動きが出てくるものです。そういうことを全部含めたのが民主主義だと思うんです。民主主義とは、制度のことではなくて原理の実現なんですから。選挙をやっていれば、それで終わりということになってはいけないと私は痛感しています。

・・・

ある意味で間接民主主義を認めざるを得ないんですが、しかしわれわれは全体として直接民主主義的なものをぶつけていかないといけない。でないと、間接民主主義は腐っていきます。それがどんなふうにして動いていくかに注意していないといけません。たとえば、A 政党と B 政党、二大政党があれば、政権交代ができるというけれども、政権交代したらどうなるか。やがて二つの政党は似て来ます。どっちも選挙の票がほしいからですね。それでは、結局、議会の独裁になってしまう。

 今、アメリカ合衆国民主党と共和党の政策がだいぶちがって来ているけれども、「九・一一」直後は、まったく同じでした。「愛国者法」をいっしょにつくったり、民主党も共和党も「テロ撲滅」の大義名分でいっしょに自由を抑圧するようになった。今になって随分離れて来て、これからどうなるかわかりませんが、前はいっしょだったんです。ベトナム戦争のときだって、いっしょでした。それがだんだん分かれていったわけです。

 分かれる基本的な力になったのは、民衆の力、市民の力です。政党人が目覚めてやったんじゃなくて、三〇万人とか、大勢の市民がデモ行進をした。私も参加したことがあります。そういう動きが政治を変えていったんです。市民が動かなければ、変わらない。だから、こうすべきだといういことを自分たちでわきまえて、一つの力にしていけばいいと思うんです。そのような力になるためには、これからは自分たちがそれぞれの政策をもたないといけません。

(「「選挙民主主義」の矛盾」&「市民が動かなければ、政治は変わらない」in『中流の復興』)

『中流の復興』: オランダ、ハーグでの「恒久民族民衆法廷 (Permanent Peoples' Tribunal)」(2007年3月21日ー25日) 判決文収録

小田実HP http://www.odamakoto.com/jp/

市民の意見30 http://www1.jca.apc.org/iken30/

九条の会 http://www.9-jo.jp/

画像:London でのデモ行進 (19 Mar 2005)

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