見えるものと見えないもの

数年前チェルノブイリに出かけた。

 

今は廃村になっているコパチ村の幼稚園。床やフレームだけのベッドのうえに薄汚れたプラスチック製の人形が転がっている。手足がもがれたものもある。プリピャチには原子力発電所関連施設の従業員とその家族用の高層住宅、デパート、劇場、ホテル、運動場、プールなどが今も残る。1986年の事故後その街の住人がすべて避難したのち外部から多くの人間が侵入し盗み出せるものは盗み室内を荒らし窓やショーウインドのガラスを壊し今も床はガラスの破片で埋め尽くされている。事故がなければその春オープンするはずだった遊園地では、イエローケーキ色の観覧車と鉄さびだらけのゴーカートたちが静かに朽ち果てている。

 

ザリッシャという廃村に行った時、道路脇の内装がむき出しになった家を見て、バスに逃げ戻った。そこに住んでいた人についてなにも知らない者たちが、観光と称し大勢でやってきて、めずらしい写真が撮れるチャンスとばかりに飛び跳ねるようにして村の奥へと分け入って行く。雨ざらしになりながらもかろうじて残っているものはその家の住人にとっては思い出深いなにかだったかも知れない。そうしたものが無残な姿で人目にさらされることの痛々しさ。泣いた私も観光客の一員としてその無神経な企ての一部をなしていた。

 

その村が廃村になったのが自然災害のせいだったとしても、私は同じ心の痛みを感じたはずだ。けれど、ザリッシャ村のひとたちが村を捨てたのは自然災害が起きたからではない。原発事故が起き大量の放射線により村が汚染されたから。だから今もそこは立ち入り禁止区域に指定され、人がそこで生活することは許されていない。許可をもらい一時的に訪れることはできるにせよ。そこを訪れるひとはみなそのことを知ってる。だが、事実を知っているのとそのことの意味が分かっているのとは別のこと。

 

朽ち果てた家やゴーストタウンを見ただけではなにも見えてはこなかった。

 

家屋などの建造物が朽ち果てていく様子は視覚的に捉えることができる。けれど放射線は知覚できない。色も匂いも熱も味も肌触りもない。だから放射線の影響を受けゴーストタウンとなった場所が持つ意味を感覚的に理解できない。ガイガーカウンターを渡され常に線量を計り続けてはいたけれど、やがて状況に慣れ鈍感になりはしても、ことの本質に対し鋭敏になるのは難しかった。

 

見てはいるが、なにも見えてはいない。

 

立ち入り禁止区域の自宅に自主的に戻り暮らし続けるサマショールと呼ばれる人たちがいる。そうしたサマショールの老夫婦の家も訪ねた。70代後半になるその老人は、強制退去後しばらくは政府が用意したキエフの住宅に住んでいた。しかしそこでの生活に適応できず、キエフで再婚した女性を連れパルイシフ村に帰還。立入が禁止され廃村となった村の掘立小屋で暮らしている。豚を飼い。老人が家の外で日本の訪問者たちからの質問に受け答えしているあいだ、家のなかに隠れていた奥さんにこっそり会いに行った私を、彼女は怯えた表情を浮かべながらも出迎えてくれた。家のなかは薄暗く、床には衣服がはみ出した黒いビニール袋がいくつも転がっていた。

 

老人は言う。ここはみんな自分の庭みたいなもの。放射線を扱う仕事をしたことがあるから放射線について知識はある。放射線量が高いところに行くと喉が痛くなりそこは危険だということが自分には分かる。だから大丈夫なのだ。

  

長い間、自然と一体になって暮らしていると、放射線量が高い場所とそうでない場所との区別が直感的に分かるようになるのかもしれない。ひょっとしたら。けれどあの老人だって本当は分かっているはずなのだ。それでも彼はそこで暮らす。そこが彼の家だから。それ以外の場所では生きられないから。

 

その前日までに訪れていた廃村やプリピャチのゴーストタウンのすぐ脇には立派な道路が今も残り、バスで乗り付けることができた。けれどこの老夫婦が住む家にたどり着くには、バスを降り、なにもない平原にかろうじて残るでこぼこ道を歩くしかなかった。別れ際にハグをした。訪れたのは冬だった。草木は枯れ、見るべき景色はなかった。それでもそこに人が住んでいたということが私を元気づけた。皺だらけの顔にひとなつっこい笑顔を浮かべるやせた老人とひたすら物静かなふくよかな妻。あのふたりはこの冬どうしているだろう。温かいものでも飲んで暖まっているだろうか。

 

チェルノブイリ原発事故の影響で458の村が消えたとされている。

けれどそこで消えたものを数字で示すことはできない。

どういう名前のどういう顔をしたどういう人がそこでどういう暮らしをしていたのか、事故が起きたときそしてその後なにを感じ、今もし生きているならどんなことを思っているのか。そうしたことを知らなければ本当のことは何も見えてはこない。

 

人類が生物である限り、放射性物質とは共存できない。

 

人類が核エネルギーを未だ使い続けているのは、貧困問題も戦争も克服できないレベルにとどまっているから。人類はまだ核廃棄物の安全な処理方法さえ持たないのだということは自覚すべき。

 

核弾頭と原子炉はどちらも核開発競争の産物。21世紀このふたつの後始末に着手することで原子爆弾原子力事故で亡くなった人たちの本当の供養をしたい。