この KW は、ワタナbシンゴさんの KW http://www.kanshin.com/index.php3?... に呼応し、多種多様なかたちで襲ってきた《暴力》(--家庭内暴力も、幼児虐待も、人体実験も、アウシュビッツも、原爆投下も、それらはすべて《暴力》だ。それらは根元的に同じもの。憎むべき卑怯な《力》の行使にちがいない!--)の犠牲者として、無念にも命を落としていった多くの死者たちへの記憶に対するわたしの「共振」です。
KW「戦争が始まろうとしている・まなざしの記憶」のなかで、ワタナbシンゴさんは「死とは誰にとっても不条理なものではあるが」、メディアが 9.11のニューヨークでの人の死を具体的な人の死として報道したのに対し、多国籍軍の爆撃を受けたアフガンの市民の死を、単なる単位でしか、無名の誰かの死としか報道しなかったことを指摘し、メディアが「ますますわたしたちの「痛みと苦しみ」への想像力、共感する力を奪っていくだろう。 」そして「人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。 」と述べていらっしゃいます。
実にその通りだと思いました。
わたしたちは「死」というものにもっと敏感にならなくてはならない。「死」のその圧倒的な力、その不理屈さ、その暴力性にもっと恐れおののかなくてはならない。わたしはそう思います。
だれか見知らぬ無名の人の「死」ではなく
抽象的で観念的な「死」ではなく
バーチャルな世界での擬似的な「死」ではなく
無数の「死」ではなく
無数の無名の「死」ではなく
交換不可能な この宇宙でたったひとりの
血と肉を持った 生身の人間の 生命が失われるということ
それが「死」なのだということ
人間の死というものは
そういう具体性をもつものなのだということ
そのことを何度もなんども思い出さなくてはならない
繰り返し思い出さなくてはならない
もしみんなが思い出さなくなるなら
どうにかしてそれを思い出させる工夫をしなくてはならない
どうにかして
どうにかして
いっしょうけんめい
「無益な戦争が始まろうとしている。
世界中からかなしいいさかいが絶えることはない。
多くの無名の死として片付けられた、足元の人々の無名でないそのひと個人の死を、語り継いでいくまなざしを持つこと。つぐないがたい痛みを持ちここに生きているものとして、そのまなざしをいつも持っていたい。」(ワタナbシンゴさん)
わたしも「そのまなざし」を持っていたい。
ああ 今 まさに 無益な 戦争が始まろうとしている
無益な殺傷が 始まろうとしている
強大な力=軍事力をもって
ひとの運命の明暗を左右する
ひとの「いのち」を玩ぶ
ひとのいのちを そのように扱えると
なぜ 考えることができるのか
その不遜さは いったいどこから来るのか
《人がひとり死ねば悲劇 (One death is a tragedy)
何百万人が死ねば統計上の数値 (A million deaths is a statistic) 》
↑憎むべきスターリン (Josef Stalin, 1979-1953) の言葉