「私は、死を前にしての全精力を傾け、ひどい悪条件に苦しみながら、情熱をしぼってこれを描いた。
そのうえ訂正の必要がないくらいヴィジョンがはっきりしていたので、早描きのあとは消え、絵に生命が漲ったのだ。これには、モデルだの、技術だの、規則だのと言ったものの匂いはない。 このようなものから、私は、いつも自分を解き放ってきた。ただし、時には不安を覚えながらね。」
どうしてもお目にかかりたくてボストン美術館まで出かけたのですが、どちらかにお出かけになっていたようでその時はお会いできませんでした。
けれど、2009年!やっとお会いできそうです。しかも、日本で。
うれしいです。
名古屋ボストン美術館 2009年4月18日(Sat)〜6月21日(Sun) http://www.nagoya-boston.or.jp/...
東京国立近代美術館 2009年7月3日(Fri)〜9月23日(Wed/Holiday) http://gauguin2009.jp/items4.php
Museum of Fine Arts, Boston http://www.mfa.org/
ー年表ー
1896年 ゴーギャン48歳
1月 現地の14歳の少女パウラと同棲。
4月 貧困,精神的落ち込みに苦しみ、ひどい脚の痛みからモルヒネを打つ。モリスに「自殺の瀬戸際」にいると書き送る。
7月 湿疹にかかりパペーテの病院に入院するも、入院費を払わずに退院。
8月 弁護士グーピルの娘の肖像を描く。
11月 7月に送った作品が、パリのモンフレーに届く。ヴェラールの画廊で個展開催。
12年 パウラが娘を生むが、誕生後すぐに死んでしまう。
1897年 49歳
1月19日 長女アリーヌの死.4月に妻メットからの手紙でそれを知り、衝撃を受ける。
4-5月 ゴーギャンの土地の所有者が没し立ち退きを求められる。再びプナアウイアに二区画の土地を買い、大きな木の家にアトリエを増設しはじめる。
7月 モンフレーに、病気のため寝たきりで、「すべての希望を失った」と書き送る。実際ゴーギャンは目の感染病、足の傷の合併症、湿疹、梅毒を煩っていた。
9-10月『ノアノア』を編集し終えたモリスが『ルヴュ・ブランシュ』誌の編集者フェリックス・フェネオンに原稿を送り、同時にその一部が、11月にはさらにその続きが掲載される。
10月 心臓麻痺にあい、モリスに「『ノアノア』を見ることなく死ぬだろう」と手紙に書く。自殺を考えはじめる。
12月初め 再び心臓麻痺に苦しみ、入院を計画する。「遺言」としての油絵の大作《我々はどこから来たのか 我々は何ものか 我々はどこへ行くのか》を制作しはじめる。
山に登って砒素の毒を飲み自殺未遂。翌朝命をとりとめて町へ戻る。
1898年 50歳
5月 体調が回復し、パベーテの公共土木事務局で働く。
6月 ドガがモンフレーからゴーギャンの油絵を購入する。
7月《我々はどこから来たのか》と9点の作品をフランスへ送付。
8月 パウラがゴーギャンのもとを去る。注文を受けて制作された《白い馬》が受取を拒否される。
9月 足の傷が再び悪化し、20日ほど入院。
11月《我々はどこから来たのか》がパリに到着する。
11月17日〜12月10日 ヴォラール画廊で《我々はどこから来たのか》他9点を加えたゴーギャンの個展が開催される。展覧会にあたり、ヴォラールは1000フランで作品をモンフレーから買い取る。翌年2月にそれを知ったゴーギャンはあまりの安価に激怒。
12月 歩くことも描くこともできなくなり、絶望に陥る。
1899年 51歳
1月 パペーテの事業局の仕事をやめ、パウラとともにプナアウイアに戻る。
4月19日 パウラが男子を産む。エミールと名付ける。
6月 パペーテの風刺新聞『レ・グゥエップ (Les Guepes:雀蜂)』にゴーギャンの文章が掲載される。
7年 油絵を描くための絵の具と画布がほとんど残っていないとモンフレーに手書きで訴え、9月に画布を受け取る。
8月 個人新聞『ル・スーリール (Le Sourire:微笑)』を自身の手で制作し、発刊し、プロテスタント宣教師や植民地統治官を批判。
1900年 52歳
1月 版画475点、素描10点、絵画10点をパリへ送付。しかしモンフレーの住所を間違えたため、到着まで9ヶ月かかった。
2月初め 『レ・グゥエップ 』の編集長となり、植民地主義への批判を強めていく。
(『ゴーギャン展 2009年国立近代美術館 カタログ』より)
追記情報
2009年11月8日(Sun)
3 — 4:30 pm ボストン美術館で日本のアニメ映画『時をかける少女 (The Girl Who Leapt Through Time)』の上演会(+レクチャー)開催。Remis Auditorium に集合せよ。