もうひとつの世界は可能だ

生と死は双子の兄弟。

「死」は常に「生」のそばにいる。

「生」は「死」によって支えられ、意味を与えられている。

だから生と死はふたつでひとつ。

けど「死者」は「生者」と同じようには活動できない。彼らも活動できるけどその活動スタイルは生きてる人たちのスタイルとは違ってる。

死は忌むべきものでは決してない。けれど死は生きているときの活動に制約を与える。だから、生きているうちやりたいことはやっておいたほうがいい。

やりたいことがあるのになにか偶発的な事故、災害、病気で死を迎え、やりたかったことができなかった時の無念さ。

戦争は天災でも事故でもない。

戦争はある人間たちによって決定され組織化された集団の指揮のもと計画的に遂行される人為的出来事。

死んでも死にきれない無念さを万人にもたらす。

魂の荒廃。

所有と暴力と戦争。

これらが人間の本性 (Nature) を構成し、そこから逃れることは永久に出来ないと考えるかもしれないけど

ほんとうに 戦場に行きたい?人を殺したい?

そんなことより、みんなで踊ろう。

みんなで歌ったり、絵を描いたり、詩を作ったり、本を読んだり、映画を見たり、部屋を創ったり、帽子をかぶったり、洋服のデザインをしたり、工作をしたり、体操をしたり、野球をしたり、サッカーをしたり、ゲームをしたりしよう。

森にきのこ狩りに行ったり、かくれんぼをしたり、ブランコに乗ったり、遊園地にゾウを見に行ったり、猫を飼ったり、犬を買ったり、文鳥を飼ったり、ロボットの設計図を書いたり、コンピュータを改造したり、ロケットに乗り込んで宇宙に繰り出したり、宇宙遊泳を楽しんだり、宇宙の人たちと交際したり、地球のことをいろいろ伝えたり、むこうのこともいろいろ教えてもらったり、そんなことをしながらもっともっと楽しくて、ためになる人生をすごそう。

少なくともわたしはそういう人生がいい。

人殺しなんてくだらないものに巻込まれたくは、あーりません。

けど、

だれかが、そういうことをやめないで、子供たちがえーん、えーん、たすけてー、って泣いてるなら、

わたしは、その子たちが生き延びて、しあわせだって思える人生を過ごせるような未来を夢みて、その子たちのことを助けたい。

わたしの自由な時間はなくなって、遊んだりあんまりできなくて、けど、だれかが殺されて、苦しんでるのを知ってるのに、わたしは知らんぷりなんてこと、わたしには出来ない。

子供たちは、たまたまそこに生まれてきただけなんだから。

殺される筋合いはない。

なんならわたしが子どもたち全てをひきとる。

ぜんぶまとめてひきとる。

Lucy がみんなの母

彼がミルクをあげて

みんなで育てて

学校に通わせて

一人前にして巣立たせる

もうひとつの世界は可能

普遍的で絶対的な善など存在しない

だとしたら なにが善でなにが悪?

善と悪がバランスを保っている状態が善で

バランスを崩している状態が悪とは考えられない?

そこに在る善と悪をありのままに受け入れその双方の力をうまく活用することはできない?