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積極的自由獲得への道

《神話も人類の歴史のはじまりは、選択という行為にあるといっている。しかし、神話はこの最初の自由な行為が、どんなに罪深いものであり、またその結果生ずる苦悩が、どのようなものであるかをとくに強調する。男と女とはエデンの花園において、おたがい同士、また自然とも、まったく調和して生活している。そこは平和の楽園であって、働く必要もないし、選択も自由も思考もない。人間は善悪の知恵の木の実を食べることを禁じられている。ところがかれは神の命令に背いて行動する。自然を超越することなく自然の一部となっていた調和の世界を破壊する。権威を代表した教会の立場からは、これは本質的に罪である。しかし人間の立場からは、これは人間の自由のはじまりである。神の命令に反逆することは、強制から自己を解放し、前人間的生命の無意識的な存在から、人間の水準へとぬけだすことである。権威の命令に反抗し罪を犯すことは、積極的な人間の立場からいれば、自由の最初の行為であり、最初の人間的な行為である。神話では、罪とは形式的には神の命令に反逆することであり、物質的には知恵の木の実を食べることである。》

《神話はこの行為から生ずる、苦悩について強調する。自然を超越し、自然や一対の相手からひき離され、人間は丸裸の恥ずかしい姿であることに気がつく。かれは独ぼっちで自由であるが、しかもまた無力でなにものかを恐れている。新しく獲得した自由は呪いとなる。かれは楽園の甘い絆からは自由である。しかし自己を支配し、その個性を実現することへの自由はもっていない。》

《「・・・からの自由」は、積極的な「・・・への自由」とは同じものではない。》

《ひとたび楽園を失えば、人間は再びそこに帰ることはできない。個別化した人間を世界に結びつけるのに、ただ一つ有効な解決方法がある。すなわちすべての人間との積極的な連帯と、愛情や仕事という自発的な行為である。それらは第一次的絆とはちがって、人間を自由な独立した個人として、再び世界に結びつける。しかし、個性化の過程をおし進めていく経済的、社会的、政治的諸条件が、いま述べたおゆな意味での個性の実現を妨げるならば、一方ではひとびとにかつて安定をあたえてくれた絆はすでに失われているから、このズレは自由をたえがたい重荷にかえる。そうなると、自由は疑惑そのものとなり、意味と方向とを失った生活になる。こうして、たとえ自由を失っても、このような自由から逃れ、不安から救いだしてくれるような人間や外界に服従し、それらと関係を結ぼうとする、強力な傾向が生まれてくる。》

しかし

《すべて自発的な行為において個人は世界をつつみこむ。》

《もし個人が自発的な活動によって自我を実現し、自分自身を外界に関係づけるならば、かれは孤立した原子ではなくなる。すなわち、かれと外界とは構成された一つの全体の部分となる。かれは正当な地位を獲得し、それによって自分自身や人生の意味についての疑いが消滅する。この疑いは分離と生の妨害から生まれたものであるが、強迫的にでも自動的にでもなく、自発的に生きることができるとき、この疑いは消失する。かれは自分自身を活動的創造的な個人と感じ、人生の意味がただ一つあること、それは生きる行為そのものであることをみとめる。》

《人間が社会を支配し、経済機構を人間の幸福の目的に従属させるときにのみ、また人間が積極的に社会過程に参加するときにのみ、人間は現在かれを絶望ーー孤独と無力感ーーにかりたてているものを克服することができる。人間がこんにち苦しんでいるのは、貧困よりも、むしろかれが大きな機械の歯車、自動人形になってしまったという事実、かれの生活が空虚になりその意味を失ってしまったという事実である。あらゆる権威主義的組織にたいする勝利は、デモクラシーが後退することなく攻撃にでて、かつて自由のために戦いつづけたひとびとが心のうちに抱いていたような目標を、現実化するところまで前進するときにのみ可能であろう。デモクラシーは、人間精神のなしうる、一つの最強の信念、生命と真理とまた個人的自我の積極的な自発的な実現としての自由にたいする信念を、ひとびとにしみこませることができるときにのみ、ニヒリズムの力に打ち勝つことができるであろう。》

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』

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