悲しみ方が足りないから世界は良くならない

ゴダールを本気で追悼したいなら『愛の世紀』以降の映画こそが重要だ。

私はそう思う。

 

「悲しみ方が足りないから世界は良くならない」

Le Livre d'image ゴダールはそう語った。

 

支配者たちは常に邪悪だったし、現実はいつの時代にも過酷だったのは確かだ。

 

けれど悪党たちがグローバルな規模で本気を出し始めたのは21世紀になってから。ゴダールが Film socialisme で語ったように。

 

今や現実は決定的に変質した。金儲けのためならなんだってやる連中が、脇を弁護士たちで固め、他人の命も尊厳も歯牙にもかけないくせに、表面だけは人道的体裁を整え闊歩し始めた。やがて拝金主義はネガティブなものとはみなされなくなり、価値観は確実に変わってしまった。

AI が本格的に舞台に登場したのはこんな現実のさなか。

だからわたしは絶望感に捉われる。

 

と同時にわたしは強い憤りも覚える。

 

わたしにとってゴダールの映画は解読を待っている大いなる秘儀の本。

そこにはわたしが正しく読解しなくてはならない意味がイマージュの形で書き込まれている。

その読解作業をわたしはこれからもこっそり続けるつもりだ。

 

 

 

「世界の支配者たちは用心すべきだろう。

物言わぬ田舎娘(ベカシーヌ)にこそ用心すべきだろう。」

( Le Livre d'image 

 

2023/05/05/Thur

 

 

 

 

 

方向性さえ間違っていなければ

方向性さえ間違っていなければ。

どんな暗闇のなかを歩いていても、方向性さえ間違っていなければそれでいい。

 

けど、もし、途中で、方向性が全く違っていたことに気づいたなら。

 

それがあの男の自爆であったはず。

気狂いピエロのフェルディナン・グリフォンの自爆

グリフォンってなまえだったなんて知ってた?)。

 

女はイデオロギー。あるいは政治的信条。理想のために闘っている女闘士。

だと思ってたけど、まったく違っていた。

女は嘘つきで最初から裏切り者。それはなに?それは自由主義陣営のイデオロギー

嘘つきで最初から裏切り者。その集まりが自由主義陣営。

 

女の周辺には怪しい連中がうろつく。つきまとう正体不明のなにか。暴力と大量虐殺を示唆するどぎつい道具(モノ)たちが、キッチンのお鍋やケトルのように、さりげなく配置されている。

とても残酷で血に飢えている。持ってるハサミでぐさりと殺る。けどまたけろりとした顔で現れ子犬のぬいぐるみのポーチからリップをとり出し塗り直す。

それがベトナム戦争時の自由主義陣営。綺麗な顔の裏に本心を隠す国家の姿。

 

そういう映画だったんじゃない?気狂いピエロって。

 

けどそういう女をそれでも愛したわけだし。男は。

じゃあ、あと自爆するしかないじゃん。

今更もとのクソプチブルたちの、かっこばっかつけてるけどあたまのなかは女と寝ることしか考えてない頭からっぽ連中たちのいる場所に戻るなんてできないし、かと言ってあの女を許せる?

最初から騙されてたことが明確になったとき。

方向性を修正するためにできることはただひとつ。

裏切り者を撃った後

カラフルに自爆。

ざまみろだ。

なにが見えた。

永遠が。

ざまみろ。

それこそ気狂いピエロ

気狂いピエロのまま永遠に生きろ!

 

 

 

 

ーーあとがきーー

自爆なんて言葉を聞くと物騒だとかなんとか騒ぎ出す連中だらけの世の中だけど、今まで自分が慣れ親しんだやり方を壊すことだって立派な自爆。いつも歩いてる道とは別のルートを通って遠回りしながら意味なくだらだら歩け。途中滑り台の上で遠吠えでもしてみろ。子供たちが振り返ったりなんかしたら上出来。

フェルディナンがダイナマイトへの着火後、我に返って火を消そうとしたなんて、そんな馬鹿げた話を信じるな。

本人は絶望の極み。なのに側から見たらこの上もなく滑稽。失恋はどれひとつ同じじゃないのに。馬鹿さ加減はどれも同じ。でもあの映画がただの恋愛映画じゃないことは忘れるな。ゴダールはいつも恋愛映画を偽装工作に使ってる。

 

それでも、ひとを好きになることを知らない人間がよい社会を作り出すこともできない気がする。だから恋愛と社会闘争って根っこのところでは繋がっていると思う。

 

f:id:BRITISHSOUNDS:20110715145412j:plain

 

わたしは固定しようとする。

けどゴダールの映画は自由に動く。

でも両義的って言葉で逃げるな。

と、わたしは言う。

(独白)。

 

 

あっ

大事なこと言い忘れてた。

フェルディナンってインテリのカリカチュアだから

かたときも本を離さず読んでは書き続けているフェルディナンが崇拝する芸術も

すでに女の裏社会のインテリアの一部

共犯関係

フェルディナンがマリアンヌとそうなっちまったように

だからフェルディナンはピエロ以外、何者にもなり得ない

 

 

だからピエロでいい

ピエロの姿で気が狂え

気狂いピエロになって自爆しまくれ

一瞬一瞬を永遠に変えろ

 

 

闘え

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マルクス・エンゲルス・イェニー・メアリー

                   f:id:BRITISHSOUNDS:20190327181811j:plain


昨日、岩波ホールで『マルクス・エンゲルス』を見た。

その感想を少しだけ書き残しておきたい。

 

マルクスが仕事を残せたのはエンゲルスマルクスの妻イェニーがいたから。

あの頃マルクスの天才を「正しく」理解できたのはエンゲルスとイェニーだけ。

マルクスに勝るとも劣らないだけの能力があったからこそ、それまでだれも心に描いたことのないビジョンを彼らは共有できた。

そのことを確認できたことがあの映画を見た収穫のひとつ。

 

そして、もうひとつ。

ゴダールは『パッション』のなかで、なぜ映画は工場を舞台にしないのか、なぜ働く労働者たちの姿にカメラの焦点を当てないのかと語っていた。それに応えるかのように『マルクス・エンゲルス』のラウル・ペック監督は労働者たちをこの映画の欠くことのできない要素として明確に位置づけていた。映画の主役はマルクスエンゲルス、イェニーだけではない。労働者たちがこの映画の隠れた主役たち。マルクスエンゲルス、イェニーがなにを見ていたのかを知るためには、彼らの視線が向かうその先にいた労働者たち、スクリーンの向こう側からこちらをじっと見据えるあの労働者たちの視線としっかり目を合わせなくてはならない。それはエンゲルス事実婚の相手、アイルランド労働者メアリー・バーンズの人を射抜くような強烈な眼差しと視線を合わせることでもある。

 

この映画は、森に落ちている枯れ枝を集めているだけの村人たちを馬に乗った武装警官たちが容赦なく鞭打つ暴力シーンから始まる。森の所有者の財産を守ることを名目とするその罰は、荷を捨て逃げ惑う人びとをそれでもなお執拗に追いかけ刺し殺すところまでエスカレートし、そのむき出しの悪意は悪夢となって若きマルクスを苦しめる。

 

所有と財産についてもっと具体的に考えろとマルクスは批判する。

 

仕事がないと家族に食べさせることもできない。食べることができなければ生きていけない。

生死に関わるリアルな対立。それは21世紀の今も同じ。

 

会場には岩波ホールの常連らしき人たちに加え学生たち仕事帰りのサラリーマン風の人たちなど肌の色も年齢も職業も実に多様な観客たちが馳せ参じていた。ゴダールの『フォーエヴァー・モーツァルト』で、納屋の前で突然演奏されるモーツァルトのピアノ演奏に農民たちが仕事の手を休め思い思いのポーズで聴き入るシーンがあった。普遍的なものは人を惹きつけ自然に耳を傾けさせる。この映画の若きマルクスエンゲルスそしてイェニーとメアリーには眩いまでの人間的健全さがある。それがこの恐るべき映画に愛らしさと普遍性を与えている。

 

 

 

エンドロールのバックにはボブ・ディランによるアイロニーの弾丸を込めた「ライク・ア・ローリング・ストーン」が元気いっぱい流れていた。

 

 

子供たちを使うのは経営の常識だよ 他社を負かし利益を上げなきゃならんからね  

なんぞと得意げにほざくエンゲルスの父親の資本家仲間。 

 

労働力を買い叩いて 子供たちまでひどい目に遭わせやがって  

利益だと? あんたが言ってる利益って搾取のことだろが

あんたなあ 搾取でぬくぬく生きているあんた あんたのことだよ

いいか そのうち搾取なき社会が来たらな そん時きゃ あんたにも働いてもらうからな 

しっかり働けよ みんなと一緒に 

あんたがこき使ってた連中 さぞかし歓迎してくれるだろうよ 

や 恐ろしいだろね あんたにはね、

と言い放つ若き日のマルクス

 

 

その強烈な真実がボブ・ディランの曲により大音響で増幅されていた。  

<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube-nocookie.com/embed/_-5fDg-VUxQ?start=3" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe>

 

 

追記 ( 2019年1月30日 )

本日 2019年1月30日  WOWOW で 21:00 より『マルクス・エンゲルス』放映

以上、Lucy @ このところ連日ジョン・フォード監督の映画を見続けていたゆえ報告

加筆訂正 ( 2019年2月16日深夜 )

追記その2(2019年3月27日 )

1840年代ドイツ。それまで共有地だった森から農民たちがこれまでのように自由に木の枝を拾うことが「窃盗」として処罰されるようになる。ライン新聞記者時代の若きマルクスが取り憑かれたのがこの「材木窃盗罪」事件。当初考えていたのとは異なりこの問題を法律だけでは扱えないと悟ったマルクスは本腰を入れ社会・経済史の研究へと向かうことになる。この意味において「材木窃盗罪」事件がマルクスの出発点だと柄谷行人は指摘している(『世界史の実験』)。

明治初期1870年代の日本で、山林を古代のように共同所有に戻そうとする運動が起きた。が古代の所有形態には戻らず山林は天皇所有のものとされてしまった。そのこともここに書いておきたい(『世界史の実験』を読んだ Lucy より)。

 

ところで、マルクス共産党員じゃないからね。そもそも当時、世界には共産党なんか存在してなかったんだから。マルクスエンゲルスが書いたのは共産主義者宣言。

 

 ゴダールはCINEMARXIST。

lucysounds.hatenablog.com

 

 

 

見えるものと見えないもの

数年前チェルノブイリに出かけた。

 

今は廃村になっているコパチ村の幼稚園。床やフレームだけのベッドのうえに薄汚れたプラスチック製の人形が転がっている。手足がもがれたものもある。プリピャチには原子力発電所関連施設の従業員とその家族用の高層住宅、デパート、劇場、ホテル、運動場、プールなどが今も残る。1986年の事故後その街の住人がすべて避難したのち外部から多くの人間が侵入し盗み出せるものは盗み室内を荒らし窓やショーウインドのガラスを壊し今も床はガラスの破片で埋め尽くされている。事故がなければその春オープンするはずだった遊園地では、イエローケーキ色の観覧車と鉄さびだらけのゴーカートたちが静かに朽ち果てている。

 

ザリッシャという廃村に行った時、道路脇の内装がむき出しになった家を見て、バスに逃げ戻った。そこに住んでいた人についてなにも知らない者たちが、観光と称し大勢でやってきて、めずらしい写真が撮れるチャンスとばかりに飛び跳ねるようにして村の奥へと分け入って行く。雨ざらしになりながらもかろうじて残っているものはその家の住人にとっては思い出深いなにかだったかも知れない。そうしたものが無残な姿で人目にさらされることの痛々しさ。泣いた私も観光客の一員としてその無神経な企ての一部をなしていた。

 

その村が廃村になったのが自然災害のせいだったとしても、私は同じ心の痛みを感じたはずだ。けれど、ザリッシャ村のひとたちが村を捨てたのは自然災害が起きたからではない。原発事故が起き大量の放射線により村が汚染されたから。だから今もそこは立ち入り禁止区域に指定され、人がそこで生活することは許されていない。許可をもらい一時的に訪れることはできるにせよ。そこを訪れるひとはみなそのことを知ってる。だが、事実を知っているのとそのことの意味が分かっているのとは別のこと。

 

朽ち果てた家やゴーストタウンを見ただけではなにも見えてはこなかった。

 

家屋などの建造物が朽ち果てていく様子は視覚的に捉えることができる。けれど放射線は知覚できない。色も匂いも熱も味も肌触りもない。だから放射線の影響を受けゴーストタウンとなった場所が持つ意味を感覚的に理解できない。ガイガーカウンターを渡され常に線量を計り続けてはいたけれど、やがて状況に慣れ鈍感になりはしても、ことの本質に対し鋭敏になるのは難しかった。

 

見てはいるが、なにも見えてはいない。

 

立ち入り禁止区域の自宅に自主的に戻り暮らし続けるサマショールと呼ばれる人たちがいる。そうしたサマショールの老夫婦の家も訪ねた。70代後半になるその老人は、強制退去後しばらくは政府が用意したキエフの住宅に住んでいた。しかしそこでの生活に適応できず、キエフで再婚した女性を連れパルイシフ村に帰還。立入が禁止され廃村となった村の掘立小屋で暮らしている。豚を飼い。老人が家の外で日本の訪問者たちからの質問に受け答えしているあいだ、家のなかに隠れていた奥さんにこっそり会いに行った私を、彼女は怯えた表情を浮かべながらも出迎えてくれた。家のなかは薄暗く、床には衣服がはみ出した黒いビニール袋がいくつも転がっていた。

 

老人は言う。ここはみんな自分の庭みたいなもの。放射線を扱う仕事をしたことがあるから放射線について知識はある。放射線量が高いところに行くと喉が痛くなりそこは危険だということが自分には分かる。だから大丈夫なのだ。

  

長い間、自然と一体になって暮らしていると、放射線量が高い場所とそうでない場所との区別が直感的に分かるようになるのかもしれない。ひょっとしたら。けれどあの老人だって本当は分かっているはずなのだ。それでも彼はそこで暮らす。そこが彼の家だから。それ以外の場所では生きられないから。

 

その前日までに訪れていた廃村やプリピャチのゴーストタウンのすぐ脇には立派な道路が今も残り、バスで乗り付けることができた。けれどこの老夫婦が住む家にたどり着くには、バスを降り、なにもない平原にかろうじて残るでこぼこ道を歩くしかなかった。別れ際にハグをした。訪れたのは冬だった。草木は枯れ、見るべき景色はなかった。それでもそこに人が住んでいたということが私を元気づけた。皺だらけの顔にひとなつっこい笑顔を浮かべるやせた老人とひたすら物静かなふくよかな妻。あのふたりはこの冬どうしているだろう。温かいものでも飲んで暖まっているだろうか。

 

チェルノブイリ原発事故の影響で458の村が消えたとされている。

けれどそこで消えたものを数字で示すことはできない。

どういう名前のどういう顔をしたどういう人がそこでどういう暮らしをしていたのか、事故が起きたときそしてその後なにを感じ、今もし生きているならどんなことを思っているのか。そうしたことを知らなければ本当のことは何も見えてはこない。

 

人類が生物である限り、放射性物質とは共存できない。

 

人類が核エネルギーを未だ使い続けているのは、貧困問題も戦争も克服できないレベルにとどまっているから。人類はまだ核廃棄物の安全な処理方法さえ持たないのだということは自覚すべき。

 

核弾頭と原子炉はどちらも核開発競争の産物。21世紀このふたつの後始末に着手することで原子爆弾原子力事故で亡くなった人たちの本当の供養をしたい。

ベトナムに出かけた時のこと

コンラッドの『闇の奥』は他の英文学の小説とは明らかに違っていた。その頃大学生だった私の頭のなかに作られたコンゴ川のイメージは、『地獄の黙示録』を見て以来メコン川のイメージと重なり置き換えられていく。だからなのだと思う、初めてタイを訪れたとき移動中の車のなかであれがメコン川でその向こう側がベトナムだよと教えてもらったとき、メコン川を遡ると一体なにが起きるのだろうという考えが浮かんだのは。

 

それから4年経ってベトナムに出かけた。バイクの洪水だとは聞いていたけれど、ホーチミン到着当日は怖くて信号のない通りの向こう側には渡れなかった。そのうち私も渡れるようにはなったものの、軽業師のようにひょひょいひょいと動き回る現地の人たちの身のこなしには美しさが宿っていた。

 

信号が変わったのに大通りの真ん中にひとり取り残された私を助けてくれたのはたくさんの竹ざるをリヤカーーにつけたおじさんだった。私を見た瞬間、道路事情が飲み込めていないため危険にすら気づいていないと判断、その私を助けるため通りの向こうからものすごいスピードで引き返して来てくれたのだ。しかもその大きなリヤカーを引っ張ったまま。

 

メコン川クルーズにも参加した。小さな船を何度も乗り継ぎ、メコンデルタの小さな島を幾つか回りながら、かつてベトコンがその茂みに隠れていたであろう狭くて蛇行した川を小舟で移動した。途中立ち寄った小さな島では水たまりで足を滑らせた。その様子があまりに滑稽で周りにいたみんなが一斉に笑ったけど、島の女の人がひとり、私の泥だらけになった靴をきれいに洗ってくれた。知らんぷりだってできただろうに、なのに私のことをまるで自分の子供ででもあるかのように扱ってくれた。隣で小さい女の子が不思議そうに私を見ていた。

 

ひたすらのどかな一日だった。まるで額縁に入ったひとつの絵を見ているような。

 

クルーズから帰ってきた私はダラットに出かけるため深夜の長距離バスに乗り込んだ。バスに乗り込むと周りにいたベトナム人の女の人たちが、次々、座席はこうやって倒すといいよとか、毛布はここにあるよとか私に教えてくれた。

 

朝方バスのなかで目が覚めフロントガラスの前の風景を見たとき頭に浮かんだのは沢田教一の写真だった。けれどもちろん道の真ん中には両手を広げ泣き叫んでいる裸の女の子は立ってはいなかったし、バスの乗客たちはみな安心しきって穏やかに眠っていた。

 

ダラットにはベトナムで一番美しいと言われていた駅舎がありプラットホームには日本製の蒸気機関車が置かれていた。バイクの後ろに乗せてもらいダラットの街をあちこち案内してもらった。泣けてきてしょうがなかった。現地のバイク観光の男の子(と思ったら後で小学生の女の子がいることが判った)になんで泣いてるのとか聞かれても涙がでるのだからしょうがなかった。あたりまえの日常が目の前に広がっていることがただただうれしかった。

 

ダラットでの宿泊所にはテレビもラジオももちろんインターネット回線もなく、だからその夜、日本への携帯電話が繋がらなかったのも電波状況が悪いのだろうくらいにしか思っていなかった。翌日やっと家族に携帯が繋がった。「大丈夫、みんな元気で変わりないから」「えっ、なんのこと?」「大きな地震が起きたんだよ。津波が来て、今、福島の原発が水蒸気爆発を起こしている」

 

2011年3月11日。私はベトナム中南部にあるダラットにいた。

 

 

はてなに 原子力に関わる問題について考え続ける(仮称)というブログを作ったこともここでお知らせさせて下さい。